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#26 高崎の歴史を学びました | cafe あすなろ - 群馬県高崎市のカフェ

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#26 高崎の歴史を学びました

2023年08月07日

cafeあすなろのブログをご覧いただきありがとうございます。

第26回を担当します広報班の木津です。

 

6月26日に大学にて「高崎歴史博物館を創ろう 高崎史志の会」の堤克政様をお招きして高崎の歴史についてご講演いただきましたのでその内容を詳しく紹介します。

 

高崎という町名が命名されたのは1598年です。井伊直政によって名付けられました。井伊直政は徳川家康の家臣として活躍し、合戦では赤い兜や鎧を身につけていたことから井伊の赤備えとして恐れられていました。

 

井伊直政は1598年に徳川家康の命によって高崎の地に築城を命じられ、かつて和田城があった場所に新たに高崎城を築きました。

 

高崎城の造りについて紹介します。高崎城は五つの櫓で防御を固めていたそうです。烏川は西側からの侵入を防ぐ役割もありました。平地に築かれた平城として分類されました。通常、お城の造りとして郭があります。天守閣がある郭を本丸、その外側から順に二の丸、三の丸と続いていきますが、高崎城は三の丸が広いという特徴がありました。高崎城の城下町は戦争をするという機能をあまり持っておらず、生活に根ざした街づくりが行われていたようです。

高崎城には酒井家次、安藤重信、松平輝貞といった江戸幕府を支えた重臣が城主を勤めていました。

 

高崎藩は明治時代に行われた廃藩置県によって廃止、群馬県の県庁が設置されましたが1872年前橋に移転。今に至ります。現在、城跡は乾櫓、土堀、水堀が現存しています。一部は高崎城址公園として整備され春になると桜が満開となります。ぜひ一度訪れてみてください!

また、高崎は中山道の宿場町として栄えました。高崎宿の特徴として伝馬宿としての機能があったようです。伝馬とは、公用の人や荷物の次送りにあたった制度のことをいいます。高崎宿は頻繁に市場が開催されていたようです

以上が今回の講座の内容になります。貴重なご講演いただきありがとうございました。感想として、まず私が子供の頃好きだった武将の一人である井伊直政が高崎に所縁がありどこか誇らしくなりました。徳川家康が江戸幕府を開いたときに側近として仕えた家臣で特に要職に就いていた徳川四天王の一人井伊直政、そして同じく徳川四天王の一人である酒井忠次の長男家次が高崎を治めていたことに驚きましたね。中山道は五街道のうちの一つで日本を支える街道でした。高崎は今も昔も日本の経済を支える重要な地点だったのですね。

 

あすなろでは今後高崎の歴史を学ぶことができるイベントを企画中です。詳細が決まりましたらお知らせするのでぜひご参加ください!

 

今回のブログはここまで!次回もお楽しみに!

 

撮影:本人

画像引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%AE%BF